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葛城ミサト、二十九才、彼氏イナイ歴内緒 のお久しぶりの休養日の朝は。
かち。
…じりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりり…
「あああああああああああ」
最悪であった。
目覚ましのアラーム音が、二日酔いの頭に響くこと響くこと。
どれくらい利いているかというと、例えれば、耳許でデスメタルががなりたてているようなものだといえば、何となく分かってもらえよう。
ちなみにデジタルの文字盤は、正午をとっくに過ぎた時間を示していた。
伸ばした手で時計のボタンの頭を叩く。沈黙した時計に、それでも頭の中はまだ残響でくらくらしている。
「ううう」
枕に埋もれながら、ミサトは唸った。
「確か昨日は…」
割れそうな頭を必死こいて繋ぎ合わせる。
昨日。NERV本部戦術作戦部作戦局第一課、執務室。
ミサトの目の前には、机の上に山のように積まれた未決済の書類。
「終業時間まであと三十分だわ、るんるん」などと呑気に構えて−といっても様々な使徒襲来を予想してのシュミレートを走らせながらだが−いたミサトに、同じ課の若いのが恐る恐る声をかけてきた。
「葛城一尉、先月の分なんですが…目を通して戴けませんか」
でないと今月の分もそろそろ。
「う」
ここのところのハードスケジュールでおざなりにしていたデスクワークのツケであった。
思わずケツをまくって逃げ出したいところだが、明日は久々の丸一日の完全オフ(もっとも、無粋な使徒が沸いて出てこなければの話だが)。
ここで踏ん張らずにいられようか。
青色吐息で最後の一枚に判子を押し終わった頃には、家に帰り着く頃には日付が変わりそうな時間になっていた。尤もさすがに昼夜関係なしのNERV本部、人の姿はそこかしこに結構見えるのだが、それでも何処かしら閑散とした印象は否めない。
廊下ですれ違った夜勤らしい若い職員が軽く会釈してくる。
「ご苦労様です、一尉」
「お先に失礼」
吐息をひそめたような空気の中、ミサトは愛車のルノーA310のシートに身を沈める。車用香水の代わりに放り込んであるサシェからグリーン・ノートの柔らかさの中にぴんと芯の通った匂いが漂っている。リリー・オブ・ザ・バレー。英国の老舗フローリスのスタンダードナンバーのひとつで、関西に出張した同僚が芦屋の代理店で土産に買ってきてくれたものである。そこそこ値段が張るのだが、こんなものぽんと買ってきて、気でもあるのかしらんと首を傾げないでもないが、にっこり笑って「ありがとう」で済ませてしまった。
こういう時女は得である。
嫌いではないが−この香りが−、何方かというとリツコのイメージに近いような気がする。自分はどちらかというと、同じフローリスでもローズ・ゼラニュームあたりの方が似合うだろう。
『これ、何だか分かる?』
男が指さした先には綺麗な装丁の箱に詰められた、丸い輪っかとフレグランスのボトルとスポイトのセットである。
『わ、パヒューム・パポライザー、よね。珍しい』
電気スタンドの電球にセットする芳香液のツールである。明りと灯すと温められて匂いが広がる。欧州ではポピュラーなものであるが、日本では珍しい。特に世界がひっくり返った後では尚。
『この匂い』
と、男は覗き込んでいたパポライザーと同じ名前の香水の試供品の小瓶を手に取ると、ミサトの手首を引き寄せると、そこに二三滴吹きつけた。
『ステファノーティス?』
くんくんと匂いを嗅いだミサトが、ボトルのラベルを見て首を傾げる。白い麻のサマードレスが眩しい。
『好き?』
『うん、嫌いじゃないわね』
『そりゃ良かった』
と男は大仰に喜びの顔を作った。
『こいつは花嫁のブーケに使われる花をブレンドしてるんだぜ。今日の支度には丁度いいだろ?』
「あーっ、やな奴のコト思い出しちゃった!」
ミサトはいささか乱暴にキイを回した。かつてのガソリン車のような唸るようなアイドリングはないが、それでも回り始めたエンジンの心地よい振動がシート越しに少し疲れたミサトの身体に伝わる。
シートベルトを留めようとしたその手が止まった。
静まり返った駐車場に低く響くエンジン音に、かつかつとハイヒールの小気味良い音が重なる。
「あれ、リツコじゃない?」
ぼんやりと光る常夜灯に照らされた顔は技術開発部の才媛のものであった。
「そっちも今上がり?」
「ええ、そうだけど。貴女も?随分と遅いじゃない?」
残業、残業、とミサトは掌を泳がせた。
「そう、あたしの方は遅番でこれでも定時よ。明日も、ね。まあその分ゆっくり出来るから良いけど」
「ふうん。じゃちょっと付き合わない?あたし明日はオフなの」
くいとミサトはグラスを傾ける仕種をしてみせた。
いきつけの居酒屋の暖簾をくぐると、焼鳥のタレとおでんのいい匂いと、煙草の煙とアルコール臭、そしてそこそこの喧噪が出迎えてくれた。
「へいらっしゃい。あ、お久しぶりですね、ミサトちゃん」
「どーも。最近忙しくって」
女の二人連れ、それも妙齢の美人に、男だけで侘しく呑んでいた卓からふざけ混じりの誘いの声が飛び交うが、虫も殺さぬような笑顔で黙殺する。顔こそ笑っているものの、眉のあたりにしわが寄っているのは見逃せない。
「あ−、うるさい。ジャケット着たままで来れば良かったかな〜」
「そりゃ、襟章見れば静かになるとは思うけど、よしなさいよね」
「冗談に決まってるじゃん」
ミサトの場合、冗談に聞こえないから恐い。
カウンターに陣取り、お絞りで手を吹きながら、メニューに目を落とす。
「えーと、そうだな〜。生ビールの中に、ししゃもと馬刺しともずく酢とゲソ揚げ、あと焼鳥は鳥レバとつくねも混ぜてね。じゃがバタとなめこおろしも。アジのタタキも美味しそうだな…で、リツコは?」
立て板に水の調子で注文するミサトに、同じカウンターの少し離れたところで呑んでいたサラリーマンらしい男がげっという顔をした。
「ほっけと焼鳥、やげんと砂肝は塩焼きで、それから冷や奴ってところかしら、あたしは烏龍茶でいいわ、アイスで」
「なによ、呑まない気?」
「云ったでしょ、あたしは明日は仕事なんだから。貴女こそ飲み過ぎて帰りに事故んないでよ。NERVの作戦部長が飲酒運転で…なんて広報部も誤魔化す気失せるから」
ミサトは黙って肩をすくめた。
「はい、お待ちィ」
泡がふちから溢れそうになっているビールのジョッキと、瀟洒なグラスに氷を浮かべた烏龍茶が二人の目の前に置かれる。
ごくごくごく。ぷはー。
と、ビールを呑む時のお約束のリアクションで一気呑み。
「おじさん、もう一杯ねえ」
「ミサトちゃん、相変わらず良い呑みっぷりだねぇ。はいお通し」
「そお?ビールはちびちび呑んだって旨くないもん」
おかわりと、突き出しのヒジキと薩摩揚げの煮物を出しながら、カウンターの奥の親父が笑った。ぺきっと割箸を割りながらミサトが胸を張る。
「あ、これ美味しい」
「どれどれ」
綻ばせたミサトに、横からリツコも煮物に箸を伸ばす
「本当。そう云えば、ほら、チャコもこういうの得意だったわよねえ」
「うんうん、よく自分でお弁当作ってきたっけ」
「そのチャコ来年結婚するんですって。相手はほら、大学の時付き合ってた佐々木くん」
「マジ?聞いてないよ、あたし」
と、学生時代の友人が結婚する話に始まって、いつの間にか何着ていこうかという話から、新しくキャンペーンの始まった化粧品に話題が飛んで、どこでバーゲンをやってるなどと、当たり障りのないよもやま話に一段落着いた頃。
「じゃ、今度スズカとかにも話通して結婚祝い考えようか。式出られると良いんだけどね〜」
「『使徒』に聞いてみれば?」
「すまじき物は宮仕えか〜」
大根おろしに醤油を垂らしながらミサトがしみじみする。
隣でほっけのひらきの身をほぐしながら、リツコが小さいけれどはっきりした声で云った。
「そう云えば加持くん、もうすぐこっちに出向って噂よ」
がたん。ミサトは空になったジョッキをカウンターに置いた。
「…生もう一杯。今度は大ジョッキで」
ちら、とリツコが視線だけを送る。
それを知ってか知らずか、口の端についた泡を手の甲でぐいと拭って、ぽつんとミサトが呟いた。
「関係ないわね」
「随分とそっけないのね」
「おじさぁん、レモンサワー頂戴」
「焼けぼっくいに火がつきそうだから?」
「お生憎サマ。燃えカスしか残ってないからつけたくったってつきゃしないわよーだ」
大きめのグラスにたっぷりクラッシュアイスを浮かべたレモンサワーを半分程一気に飲み下してから、リツコの方を向いて思い切り舌を出してみせた。
「余分なことを云うようだけど、任務にあたし情は挟まないでね。それだけ確認しておきたかったの」
「本当に余計なコトだわ」
別段特に腹立たしげでもなくミサトは呟いた。
「日本酒、冷やで」
「へい、何にしやす?菊姫に群馬泉、真澄、梅錦に東力士、とありますが」
「お任せしまあす」
「ミサトちゃんは辛口だから『一本義』でもお出しして」
紅葉が肩にのせてある艶消しの丹波徳利が、揃いの猪口と一緒に差し出される。
リツコがその少しもったりとしたシルエットの徳利で酌をする。
「じゃ、シンジ君に入れ込むのはよしなさい。これはあたしからの忠告よ」
「…入れ込んでなんかいないわ」
「いざと云う時、切り捨てられて?」
「彼を切り捨てるのは、よりによって大事な切り札を廃棄するようなもんよ。第三の適任者の表に現れていない潜在力は、赤木博士、貴女が一番分かってるんじゃなくて?そんな真似、作戦部長がするわけにいかないじゃない。勿体無い」
「ふうん…」
意味ありげにリツコは目を細めた。紅唇にアルコールを流し込むとかすかに微笑んだ。
「使徒を倒すのと、シンジ君の命、何方かを選ばなければいけない状況になったら?」
「二つに一つ?」
「そう」
「いつも似たようなもんだと思うけどね」
座敷の男が声高に話す声が聞こえる。
「もう、やってらんねーよ」
「あら、あれ整備部の若い子達じゃない?」
ミサトもちらと視線を配る。
「せっかくこっちが一大決心して結婚申し込んだら、『あたし、馳くんのコト好きだけど、第三東京市に住むの恐い』から厭だとさ。何だよ、そりゃ。誰の為に苦労してると思ってんだああああ」
落ち着け落ち着け、と仲間がその男の肩を叩いている。取り敢えず慰めるより酔い潰す方が早かろうと、男のコップが空くと同時に、よってたかってこぽこぽと注がれる。
「『使徒』を倒すわ」
ミサトはきっぱりと云い切った。グラスに映るその顔は冷徹で不遜で傲慢な軍人の顔だった。
「『使徒』の殲滅は何を於てもの責務よ。人類が生き延びていく為の最優先事項。それがあたしの使命。それくらい肝に命じてあるつもりだけど」
「良く云う」
ミサトの胸の外にも中にも残る「傷」の意味を良く知っている友人は艶やかな唇を歪ませた。
「方便でも結果が良けりゃいいのよ。人生万事塞翁が馬ってゆーじゃん、そんなモン。…おじさん、お土産に焼鳥色々混ぜて十本くらい焼いといてくれる?それから、まだボトル残ってたよね。氷とお水ください」
「まだ呑む気?」
「呑む気」
スコッチ独特のビート香をくゆらせながら、琥珀色の液体の中で氷がからんと音を立てた。
「わたし、アル中の友達持つのはイヤよ」
「…生ビール中二杯に大一杯、サワー一杯に冷酒が一本、ウィスキーが何杯だっけな〜」
指を折り折り勘定してみる。
それだけならばまだ良かったが、今一つ呑み足らないような気がして、マンションに帰ってきてからまた飲み直してしまった。
底から1センチくらい残っていたオールドパーに、缶チューハイ。
分かりに分かりすぎるくらいの見事な自業自得。
「墓穴〜」
部屋の中をちっちっと時を刻む音だけが聞こえる。
ちっちっちっちっちっちっちっち…。
がばっとミサトは布団から身を起こした。
「しゃあないっ!こういう時には迎え酒に限る!」
タフでしぶとい女ならではの発想で、痛む頭を押さえつつもダイニングへと向かう。
「その前に一風呂浴びるか」
バスルームの前でふと立ち止まるが、中から水音が聞こえた。
ペンペンが入浴中らしい。
しゃあない、とミサトは肩をすくめた。となると…。
「麦のジュース、泡の出るジュース♪」
逞しくも鼻歌交じりに冷蔵庫の扉を開けたミサトの顔がすうっと白くなった。冷蔵庫の中は見事にすっからかんだった。そうビールすらもない。あるのは扉の裏側のスタンドにスティックチーズが三本と牛乳パック、呑みかけのスポーツ飲料の入ったペットボトルと、エッグトレイに卵が二個。後は脱臭剤が一個、ころりんと横たわっているだけだ。
コンビニのツナサラダの食べ残しもある。
でもビールはない。
「あ」
そう云えば。
『あんれ〜、これでオシマイ?』
日本人の朝はご飯と味噌汁と酒と云う独創的な見解で、朝からビールを引っかけていたミサトは、同居人の白い目も気にせず、もう一本と冷蔵庫を開いて、最後の一缶を手に頓狂な声を上げた。
『ここのところ帰りが遅くて買い物してる時間なかったですからね』
『おまけに誰かさんはついででも買って来てくれないし〜』
すねるような口調でミサトはシンジににじり寄る。冷や汗をこめかみに浮かべながらシンジは後退る。
『だって中学生がアルコール買う訳には行かないでしょう?』
『今時のコンビニって、いちいちそんな煩いコト云わないと思うけどなあ』
『云われてからじゃイヤですよ』
『そんなんじゃ大物になれないわよっ』
ぱあんと背中をはたかれてシンジはけほけほとむせていた。
「あちゃ〜、忘れてた」
こういう時に限ってウイスキーも焼酎も日本酒もないと来たもんだ。昨日呑みきったのだから当然だ。
唯一残ってるのはコント8のXO。あとグラス一杯あるかないかしか残っていないので、ここで虎の子に手をつけるのは躊躇われる。とはいえ、さすがに料理酒をあおるほど堕ちたくはない。
ばたんと乱暴に冷蔵庫の扉を閉めると、その扉にマグネットで留めてあるメモに気がつく。
「あら、これ…」
−冷蔵庫の中が空だったので、酒屋さんに配達してくれるように頼んでおきました。シンジ
「どーも、すみません」
少し大仰にメモに向かって敬礼をした。冷蔵庫の扉の磨かれた面にその姿が映って、ミサトは思わず赤面した。
「莫迦か、あたしゃ」
取り敢えずどうにかしたいのは、この飲み過ぎた後ならではのからっからの喉。仕方なしにスポーツ飲料をこくこくと呑む。乾いた喉に冷たい液体が通り過ぎる感触は悪くないが、やはりどこか物足りない。
「あの子って出来が良過ぎるのよね…成績はイマイチだけど」
ペットボトルを戻しながら、メモを指先でぴいんと弾く。
何のかんの云って期待に応えてしまう。こっちの予想していた以上に。
「一遍くらい派手に失敗してくれた方が可愛げあるんだけどな。もっとも」
失敗されてたら、こんなコトも云ってられないんだけどねー。
それと、シンジの目の奥にある恐怖をミサトは知っていた。期待を裏切って捨てられてしまうことへのそれ。
ミサトの手が無意識に胸のあたりに伸ばされる。寝起きのシャツ一枚のそこにはいつも下げられている十字架はない。代わりに薄い生地の下に眠る古い傷を感じる。
「シンジ君ばっかじゃないけどね…」
あー、やめやめ、とミサトは大きく首を振った。途端に忘れかけていた頭痛がずきんと響いた。ミサトはなるべく宿酔いを刺激しないように、そろそろと台所の棚を探ね始めた。
配達まで待てずに、ごそごそと台所をあさるその姿はどう見ても超国家組織の若きエリート、有能なる将官などではなく、ただのキッチンドランカー一歩手前である。
シンジが見たらまた厭そうな顔をするだろう。
「あ なんかめーっけ」
ごろりと転がり出たのはワインの瓶だった。綺麗な翠のボトルに、中央に翼をたたんだ鷹の意匠に縁取りは葡萄の蔓のラベル。ドイツワインの赤、十年物だ。
「…一応これも酒よね」
確かお歳暮に貰ったんだっけ?
ドイツ、か。
思い出されるのは、いづれそこから訪れるはずの「第二の適任者」…惣流・アスカ・ラングレー。
「どうして、あんな子供達に未来を任せなくちゃなんないのかしら」
まだ中学生よ。義務教育中だってのにさ。労働基準法に反するわ。
ネルフ本部にいる時は間違っても口に出せないようなことをぽつりと呟きながら、ワゴンの引き出しを開ける。コルク抜きは…見つからない。
「………」
こうなると大して好きでもないのに意地でも呑みたくなるのが人情というものだ。
ミサトは台所を出ると、ワインの瓶を片手に自分のあたし室へ向かった。
吊るしたままのジャケットのポケットから取り出したのは万能ナイフだった。つい先頃試供された、NERV技術開発部オリジナルである。エヴァのプログレッシブナイフと同じ素材(流石に高周波振動も光熱も発しないが)で出来ているという、なまじの戦闘ナイフなどより物騒な代物である。そこからちゃきんと選び出したツールは、螺旋型の尖った針先。まさか開発部も作戦部長の初めての使用目的が、迎え酒のコルク空けとは想像だにしていなかろう。
ワインの栓にコルク抜きを差し込んできゅるきゅると捻り込む。すっぽんと抜くと、赤ワインの王様カベルネ・ソービニヨンのトップアロマが鼻孔をくすぐる。
こちらも貰いもののクリスタルカットのデカンターに移すと、よりいっそう芳醇な香りが漂う。しばらくワイングラスの中でゆらゆらと揺れる、救世主の血ともいわれる紅色の液体を瞶めていたが、どうした訳か鼻頭にシワを寄せて、一気に飲み干した。
セカンドインパクト後にようやく迎えた当たり年に造られたワインは、さすがに美味だった。その味わいはやや辛口だが、まろやかな後味が絶品である。
何を思ったか、ミサトはグラスをもう一個持ち出すと、自分のグラスの前に置いてそれにもワインをなみなみと注いだ。
そして、机に膝をついてちらと目だけ上げたその仕種は、ワイングラスの向こうに誰かがいるようだった。
「早く一緒に呑めるような年にならないかな」
その頃には今のことを笑って話せるようになっているだろうか。
風呂上がりのペンペンが首からタオルを引っかけながら、ダイニングを横切る。ミサトに向かって、空いたよ、のつもりか、くえっと一鳴きして自分の部屋に戻る。
くい、と誰かの為のワインも飲み干して、ミサトはバスルームに向かった。
バスタブに温めのお湯をたっぷり満たして、バスオイルを二三滴落とす。たちまちラベンダーの匂いがたちこもる。
「はふー…極楽極楽」
頭の先までお湯につかって、ミサトは顔を上げて大きく息を吐いた。
結局これで休日を使い果たしたかと思うと空しいような気がしないでもないが、仕方ない。
タオルハンガーに、ブルーとグリーンのボディタオルが仲良く下がっている。ブルーがミサトので、シンジはグリーンだ。
それを視線に納めてミサトはぽちゃんとお湯をすくった。水蒸気でこもったバスルームを水滴が踊る。
どうして自分じゃ駄目なんだろう。分かっているくせにそんな思いが湧き出る。彼らじゃなきゃ駄目なんだ。セカンドインパクトの子供たちでなければ。
まだたった十四才なのに。
(でもワタシもジュウヨンサイだったわ)
南極の海で、たった一人泣いている少女が呟く。
(痛かったの。恐かったの。そして、悔しかったの)
(同じコドモなのにどうして彼らには力があって、ワタシにはなかったの?)
ざぶりとミサトは再びお湯の中にもぐった。
「牙」はミサトの為には用意されていなかった。だからミサトは自分の爪を見つけるしかなかった。
求めるところには与えられず、欲していないところに押しつけられる。どういうワケか世の中はそういう風に出来ていものらしい。
「シンジ君、本当は普通の子でいたかったろうに、ね」
選ばれし者の洸惚と不安、共に我にあり。…シンジには不安しかないだろうなあ、きっと。
「…ううん、今でも全然普通の子よ。羨ましいくらい。普通過ぎるから」
−恐いの。
「いっそレイみたいだったら。あたしも…」
『いざと云う時、切り捨てられて?』
「…やれるわ」
耳の奥を死の海となった南極を渡る風が聞こえる。これが聞こえ続ける限り。
風に吹き散らされる、怯えて震えていた少女の泣き声が、今でもミサトの体の何処かに響いている。誰かが止めてくれないかと、人肌にすがったこともあった。けれどそれは救いにはならないと気づいたから、離れるしかなかった。嫌いになったわけではなかったのに。
永遠に続くノイズ。
ぴんぽーん♪
不毛な袋小路に行きかけた思考に歯止めを利かせたのは玄関のチャイムだった。
「ごめんください、三河屋です」
「はいはいはーい。お待ちしてましたぁ」
インタホンの向こうから聞こえるお待ち兼ねの声に、ミサトはるんたったと軽い足取りで玄関に向かう。切り替えの早さが自分の取柄よね、と内心肩をすくめながら酒屋に応対する。
かくて玄関に鎮座するのは大瓶1ケース。350cc缶2ダース入りが5ケース。ちょっとした小山ではある。
「これで二週間は保つわん」
ごろごろごろと冷蔵庫にビールを転がし入れて、入り切れない一缶を手に取る。
「く・ち・な・お・し」
多少生温いがそこは我慢我慢。
ぷしっとタブを引いた時、携帯電話が鳴った。
「はい、葛城です。…え?オールインオール中央店?ええ、碇シンジ君の保護者はあたしですけど?」
「とにかく来てくれって…コンビニから呼び出しくらうなんて、何やったのよ、あの子?まったく警備部員は何してんだか」
ともかくすぐさまマンションを飛び出して、愛車のアクセルを踏みながら、ミサトは携帯電話のオートダイヤルを押す。コールが一回鳴り切らないうちに、受信される。
「ちょっとぉ?一体何なの?」
「はあ、それが…」
エヴァ搭乗者のシークレットガードが歯切れの悪そうな声で応じる。
「あーもういいわ。着いちゃった」
全天候型タイヤを鳴らしながらブルーのルノーはコンビニエンスストアの駐車場に突っ込むようにして止まった。もともと歩いたって行ける距離である。
「要領良さそうでトロいもんネ…ふう」
かちりと携帯電話を切ると、大股でミサトは店内に足を踏み入れた。えらい勢いで滑り込んできた車に目を丸くしているバイトの前をミサトはすたすたと横切ると、奥から顔を覗かせている中年の男の前に立ちはだかった。胸に着けているネームプレートを確認する。「店長」…。間違いない。
エナメルコンビのパンプス、ガンメタルの男物の時計、黒でまとめたハイネックのアメリカン袖のシャツに革のタイトスカート。運転用の革手袋も黒。ちゃらちゃらと耳許で踊るのはレオパードウッドのイヤリング。
つい一時間程前まで、二日酔いの頭を抱えて、タンクトップ一枚でぐでぐでしていた女とはまるきし別人である。
店長が何事かと息を呑む。
そこですっとミラーシェードを外して、ミサトはにっこりと、野郎どもに及ぼす効能を十分念頭に置いた、天使の微笑みを向けた。もちろんいでたちとのコントラストも計算済みだ。
「さき程電話を戴いた葛城ですけど、うちのシンジ君が何か?」
ぼぉっと思わず見惚れていた男は、それでもはっと我に返った。
「あ、これは、わざわざすみません。まあ、こちらへ」
へどもどした店長の反応に、ミサトは胸の中でガッツポーズを作った。まずはこれで相手を自分のペースに乗せられた。どんな難癖が待っていようが、初手が取れればかなり楽に事は運べる、と戦術の鬼才はにやりと笑う。
「?」
「おほほほほ」
誤魔化し笑いを作りつつ、店長の案内でミサトはスタッフの着替えやら事務やらする為の小部屋に連れて行かれた。
「…ミサトさん」
ドアの開けられた音に、シンジがはっと顔を上げた。しょんぼりしんなりした風情が、捨てられた子犬を思わせる。
中はロッカーと壁際にパソコンと電話が置いてある事務用の机と、真中に会議用の机がある簡素な部屋で、折り畳みの椅子に腰掛けたシンジは申し訳なさそうな顔をして、すぐに俯いてしまった。中にはもう一人人物がいた。
ミサトは心の中で舌打ちひとつ。
−ちっ、こっちが本命だったか。
この暑いのに、ご丁寧に背広にネクタイまでしめた三十代の男が四角ばった顔を尚更いかつくさせて立っていた。
−うーん、こりゃ難物そう。
「こちらは?」
男が店長に向かって目配せした。店長が口を開く前にミサトはすっと前に出た。
「碇シンジ君の保護者の葛城ミサトです」
「失礼ですが、どんな御関係ですか?お母さんにしては随分とお若いようですが」
こいつ蹴ったろうか、と思いつつもミサトは社交辞令用の顔を崩さず、
「人のことを詮索する前に、そちらがどんな方か名乗るのが常識じゃございません?」
男は鼻白んだ顔で、近所の高校の教師だと名乗った。何となく漂う空気の悪さにコンビニの店長は「失礼」とさっさと仕事に戻った。
「色々事情があってお預かりしておりますの。彼のお父さんと職場が一緒なのが縁で…」
−彼とも職場は一緒だけどネ。
「…で、うちのシンジ君が何かしましたか?」
「事情ねえ…成程」
「は?」
ミサトは眉をひそめた。
「貴女も…葛城さんでしたっけ?一応は保護者なら気をつけて戴きたいもんですなあ。ま」
上から下までじろじろと見られる。
「随分とお若いようですから、それも致し方ありませんかな」
イヤミか、この親父。
「で、結局何したんですか?」
額にぴしぴしと青筋が浮かぶのを必死で押さえて、微笑みを浮かべたのは誉められてもいいだろう。
「中学生の分際で飲酒をしようとしたんですよ、それも往来で」
机の上、シンジの目の前には中に中身が入ったままのコンビニの袋と、タブの開けてある缶ビールが置いてあった。
「…なーんだ、その程度か」
「は?」
眉をひそめたのは男の方だった。
「てっきり万引きのひとつもやらかしたのかと思ったわ」
−シンジ君がそこまでする程肝が太いとは思ってないけど。キレると分かンないけどネ。
何しろ、家出しても映画館で時間潰して、終電になるまで環状線をぐるぐる回った挙げ句、野原で捕獲…もとい、保護された前歴持ち。
「とにかく、詳しい状況を話して戴けませんか?」
「つまりですね…」
生徒指導の外回りの最中、たまたま立ち寄ったコンビニで、どう見ても中学生らしい少年−つまりシンジだが−の買い物カゴの中に、菓子やジュースに交じってビールの缶が入っているのを「発見」した。気になって「監視」していたところ、会計をすませた少年は店から少し出たところで袋からビールを取り出した。口を開けたところで、見るに見かねて声をかけたとの事である。
「逃げなかったのは誉めてもいいが、それもこの様子じゃ…」
男は少し小莫迦にしたように鼻で笑った。
逃げ出すほど意気地がないとでも言いたげだった。
えへん、とミサトは咳払いした。
「『しようとした』って仰いましたよね。一杯引っかけた現場を押さえられたのならともかく、未遂なんだから、何もそう鬼の首でも捕ったみたいに大騒ぎしなくてもいいんじゃありませんこと?」
「こういうささいなきっかけを見逃していたら、非行の芽を助長することになってしまうんじゃありませんか」
まだ生き残っていたか、こういう前世紀の遺物みたいな教師。とミサトは再び二日酔いが蘇ってきたような思いに見まわれた。つきあってらんない。
「ミサトさん、僕…」
それまで貝のようにつぐんでいたシンジがおずおずと口を開いた。
「違うんです、誤解なんです。確かにビールは買いましたし、開けたのは本当ですけど、間違えたんです、ジュースと…。暑くてぼぅっとしてたし、缶の色似てたから。開けてから気がついて。どうしようかと思ったら、この人に…」
−そんなコトだと思った。
ミサトは苦笑した。
成程、コンビニの袋の中にエビスビールと同じようなイエローオーカーのスチール缶の姿も見える。
「取り繕ったような出任せを…」
「本当です!」
シンジが必死の面持ちで訴える。
「ならどうしてすぐに事情を説明しない?」
「だって…」
ふんと男は睨み下ろした。シンジがたちまち萎れる。
「往生際が悪いですなあ」
「そうですか?彼、嘘ついてないと思いますけど。嘘にしてはお粗末過ぎるし、シンジ君て実際そういう鈍臭いトコロあるし」
「鈍臭い…」
ぼそりとシンジが呟く。
「それに、よくある話でしょう、家庭がちゃんとしていない子供が親の関心を引きたくて悪い事をしでかすってのは」
ぷち。
脳のどこかがキレる音がした。
ばん。と机の上にミサトは掌を乱暴に置いた。
「お言葉ですが。家庭環境が人格形成に全く影響を及ぼさないとは思いませんし、未成年の飲酒が現行法では違反だとは知ってますけどね。センセ、世間のくだらない俗論だけを物差しにものを語るのはよした方がいいと思いますわ。自分でものを考える事が出来てないと吹聴するようなものですわよ。人にものを教えて給料貰ってる人間の端くれだったら、其位しないと税金泥棒って云われますわよ」
「なっ…」
「ちなみに」
とミサトはやや気取った仕種で胸に手を当ててみせた。
「あたしも離婚家庭で育ってますけど、一応は真っ当に社会人してるつもりですけど?」
一瞬堅物教師の口が開きかけた。その格好でどこが…とでも云いかけたのだろう。だがその機先を制し、
「生憎、人間、杓子定規で計れると思いなさんな。しかもセカンドインパクト前の年季の入った価値基準じゃあないの!ガキだ青二才だと舐めるのもそちらさんの勝手だけど、若造にゃ若造の意地も誇りもあるってえの。個人に対する価値の基準を周辺環境に求めるなんて、一人一人をきちんと認識する能力に欠けるんじゃなくて?」
男はミサトの舌鋒に絶句していた。
「とにかく」
ふん、と荒々しく鼻を鳴らすと、
「実際に彼が飲酒行為をしようとしたにしても結局未遂ですし!問題はないようだと判断致します。彼は連れて帰ります。良いですね?」
大体拘束する権限だってないくせに。
まだ戸惑っているシンジの背中をミサトは促すように叩く。のろのろとシンジは鞄を手に取った。
「さ、行こう、シンジ君」
「ちょっと待ちたまえ」
ミサトは肘を掴もうとした男の手をぴしりと撥ね除けて、
「文句があるなら、いつでもこちらへどうぞ!」
男の顔に向けてミサトは名刺をぶつけてやった。
「…何をするっ…『NERV戦術作戦部作戦局第一課課長葛城ミサト一尉』。え…」
絶句する男を残してミサトはシンジを引きずるようにして、さっさと不愉快な空間を後にした。
ルノーが青い軌跡を残して、道を滑っていく。運転手の機嫌を繁栄して実に気持ち良さそうな走行である。
「あー、云ってやった、云ってやった。さっぱりした♪」
あそこで名刺叩き付けたのはまあ権威主義だけど、あーゆー手合いには効果的。最適の対抗策を取るのも戦術のひとつと割り切れば自己嫌悪にもならない。
すこぶる機嫌の良さそうなミサトの隣で、シンジはシートに縮こまるようにしてひたすら恐縮していた。
「…ごめんなさい…迷惑かけちゃって…せっかくの休日なのに」
「べっつにー」
けらけらとミサトはハンドルから離した片手をひらひらと泳がせた。
「どうせ寝休日だったし」
「やっぱり」
小さくシンジが呟く。
「あのビール、あたしに買ってきてくるつもりだったんでしょ?」
「いつもの酒屋さん、配達遅い時あるから…」
「あたしがいつも呑んでる銘柄だもんネ」
胸元に差したままのミラーシェードのサングラスがきらりと真夏の光を弾いた。シンジはその光を受けとめて、眩しそうに目を細めた。
「ありがとう、ワガママ聞いてくれたんでしょ?謝らなきゃいけないのはあたしの方ね…色々な意味で」
言葉の最後の方は夏の風にまぎれて消えた。
どんな形であれ、自分だってシンジという個人ではなく、「エヴァの搭乗者」としての彼を見ているのだ。だから、本当は誰を非難するいわれなんてないのだけれど。
「…で、でも」
にっこり。心の間隙に囚われないように、明るい微笑みを浮かべてみせる。
「だから今日の晩御飯はあたしが作る」
「え」
それはよして欲しい。
とは懸命なシンジは口には出さなかった。
「…こんなオチだとは思ったけど」
「シンジくーん、ハンバーグ弁当と焼肉弁当どっちが良い?」
コンビニの弁当を手に電子レンジの前でミサトが尋ねてくる。しゅんしゅんと湯気を噴き出しているケトルにおっかなびっくり手を伸ばしつつシンジが答える。
「どっちでもいいです」
「…そういうトコロ直さないとこれからもワリ食うわよ」
「じゃ、ハンバーグ」
「そうそう」
沸かしたお湯をカップ味噌汁に注ぐシンジ。
ミサトは片手に加熱済みの弁当二つともう片手にペンペンのサンマを持って、コンビニで買ってきた唐揚げやらキンピラやらの惣菜の並んだ食卓についた。
「では」
と、ミサトがビールを手に、シンジにもジュースを満たしたグラスを持たせる。そして、訝しそうな顔をしたまま上げられているシンジのグラスに、ミサトはかちんとアルミ缶をぶつけた。サンマをくわえたペンペンが「くえっ」と鳴きながら首を傾げた。
「ではシンジくん、初補導記念というコトで」
「ミサトさあん」
タチの悪い冗談にシンジが抗議する。
「シャレよ、シャレ」
「…………」
「まあまあ、そんな小難しい顔しないで、一杯、一杯」
と、お酌のようにペットボトルを掴んだ手が止まる。
「ミサトさん?」
にやり、不敵に笑ったミサトの手は新たなビールの缶を持ち帰る。そしてそのままシンジのグラスにビールが注がれる。
「ほら、一気」
「ええええっ 」
「呑む気もないのに補導されたんじゃ、ワリ悪いじゃない。ここはいっちょぐっといって、モト取んなさいって。ね?」
「マズいですってば、僕まだ未成年なんですよぉ 」
「何若いのに堅苦しいコト云ってんの。興味ナイとか云わせないわよぉ」
「そりゃ、少しは…って違います。今日のコトだって不測の事態というやつなんだし。とにかく駄目ですって」
「保護者が許す 」
不良〜、というシンジの魂の叫びは、注ぎ込まれる泡の向こうにかき消された。
翌日、二日酔いのシンジを見たリツコから、二日酔いならぬ三日酔いのミサトがこっぴどく文句を云われる羽目になったのは言うまでもない。
了
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