今日中に終わらせなければならない書き物を一通り終わらせると、翔龍子は椅子に座ったままの姿勢で大きく一つ伸びをうった。長い時間机に向かいっぱなしだったせいで、肩や腰、背中など体のあちらこちらが凝り固まってしまいひどく痛む。首を大きくぐるりと回したり、肩を揉みほぐしたりと色々やってみて、どうにか少しは軽くなったかと思える頃には、うっすらと汗さえ滲んでいた。
「もうこんな時間か……」
窓の外に目をやると、日はすっかり落ちてしまっていて代わりに高々と月が昇っている。部屋で書き物を始めたのは夕げの後すぐ、そのときにはまだ空はほのかに明るかったし、月もまだ半分ほど隠れていたはずだ。
「いいかげんに休むとしますか。これじゃ武宝に心配されるわけだな」
自分にもっとも忠実な、そして彼もまたもっとも信頼を寄せている武官が、今にも泣き出しそうな顔で自分に休むように進言してきたときのことを思い出す。元々が強面で通っているだけに、そのときの崩れきった顔を頭に思い描いた途端、思いっきり吹き出してしまった。
たっぷり五分は笑っていただろうか。翔龍子は引きつりかけた腹筋をさすりながら、溜まっていた涙を拭う。それから床に入り休もうとするのだが、今ので完全に目が冴えてしまっていた。どんなに固く瞳を閉じ眠ろうと思ったところで、一度吹き飛んで眠気はなかなか戻ってはこない。
一つため息をついて、やおら立ち上がった翔龍子だったが、その拍子に窓の外の月が目に飛び込んできた。ちょうど今宵は満月で、まるで夜空をそこだけ丸くくりぬいたかのようにくっきりと輝いている。
「そう、ですね。たまにはそういうのもいいですか」
そして一人納得してうなずくと、床から出て部屋を後にした。
聖龍殿ほどの建物にもなると、中庭だけでもその広さには目を見張るものがある。そして当然のようにそこに作られている池なども数、広さ共に桁外れだ。翔龍子がやってきたのはそんな池の中の一つに面した廊下だった。
一口廊下と言っても幅で大人が手を広げて悠に三人は並べるほどの広さがあり、長さともなれば百メートルは下らない。その前に広がる池も直径で七、八十メートルはあるだろうか。
屋敷の南に面して作られたこの中庭には、岩が置かれたり木が植えられてはいない。精々が植え込み程度で、広く視界が開けている。と言うのは、夜空を借景にすることを前提に造られているためで、今夜のような見事な満月の日には、翔龍子のように夜空を眺めるものも少なくはない。
翔龍子がやってきたときも、中庭へと降りる階段のところに腰掛ける影が一つあった。丁度月が雲に隠れてしまっていて顔まではわからないが、翔龍子と同じぐらいの背格好のようだ。
文官の誰かが月を見ているのだろうとは思うが、そうすると果たして自分も相席してよいものかどうか。自分の立場を考えれば、恐縮するなという方に無理がある。ここは相手が気づかないうちにこの場を去り、別の場所に移動しようと決めたとき、相手がこちらの方を向いていることに気がついた。
こうなると引き返す方が却って不自然になってしまう。内心しまったとは思いながらも、仕方なく相手の方へと近づいていく。まだ暗くて顔はよくわからないが、それは向こうも同じことのようだ。探るような視線にやや居心地が悪くなるが、自分も同じような思いをさせていることだろう。そう思うと多少は我慢できる。
そのうちにあと数歩というところまで近づいていた。そこまで来てようやく相手の輪郭に覚えがあることに思い至ったが、それが誰であるのか肝心なことが思い出せない。そうこうするうちに月にかかっていた雲が晴れ、月明かりが周囲を照らし出す。もちろん二人の姿も照らし出し、ようやく明らかになった互いの顔に、期せずして二人とも大声を上げて顔を見合わせる。
左の頬の傷跡。口元に微かに覗く牙のような八重歯。後ろで軽く縛った金色の長髪。そしてその間に見える一本の角。その姿を見間違えるはずがない。
「虎王!?」
「翔龍子か!」
翔龍子ももちろん驚いたが、虎王の方も翔龍子の姿に驚きを隠せない。思わず腰を浮かせているのがその証だ。その慌てぶりを見ているとかえって落ち着いてしまい、翔龍子は軽く笑みを浮かべながら虎王の隣に腰を下ろす。それを見て虎王も、我に返ったように浮かせた腰を落ち着けた。
「いつこっちに?」
「昼過ぎには着いてた。一度モンジャ村に寄っていたからな、聖龍殿には今さっき来たところだ」
運命の番人となった虎王が聖龍殿に戻ってくるのは、実に久しぶりのことだった。いや、神部界そのものにはちょくちょく来ているらしいのだが、こうして聖龍殿にまで足を運ぶことはほとんどない。
「そういえばヒミコは?」
「忍部の屋敷だよ。親子でゆっくりしてるところを邪魔したくもなかったしな。ここにはオレ様一人で来た」
ごろんと床に横になって月を眺めながら、虎王は言った。
「親子水入らず、ですか。そう言う虎王、あなたは母上の元にはもう?」
行ったのですか、そう言おうとした翔龍子だったが、虎王が小さく首を横に振っているのを見て言葉を止める。
「最初は顔は見せようかとは思ったんだけれどな、さすがにこんな時間じゃあな」
「それで、のんびりと月見ですか」
「おう、そんなところだ」
にやっと笑って答えた虎王が、急に何かを思い出したかのように起き上がった。
「そういやあ、お前と呑んだことなんてなかったよな。いい機会だし、一緒にやらねえか?」
くい、と盃をあおる真似をしてみせる。そうしてから傍らに置いてあった荷物袋から、茶褐色のガラス瓶を取り出して掲げてみせる。
「いいですよ。私も元々月見酒でもと思ってきましたから」
翔龍子も笑みを浮かべて、両手に持っていた酒瓶と盃を掲げて見せた。
「へえ、結構呑みやすいんですね、これ」
虎王の持ってきた酒を飲んで翔龍子がもらした感想がそれだった。実際、正直なところそれほど飲み慣れているわけではない翔龍子でも、盃が小さいとはいえどんどん進んでいた。
ちなみに虎王が持ってきた瓶には、『菊水』と書かれたラベルが貼ってある。
「この前現生界に行ったときに、ワタルのところから持ってきたんだ」
そう言いつつ手酌で自分の盃に酒を注ぎ、一息であおる。
「でもやっぱり、神部界の酒が一番口に合うな」
今度は翔龍子の持ってきた酒を注ぎ、同じように一息で飲み干す。故郷の酒が一番だ、というわけだが、そんなことを思えるような年齢でもないと思うのだが。
「現生界に行ってたんですか?」
「ああ。ちょっと顔を見せに行ったつもりだったんだけどな、何となくそのまま宴会になっちまって」
「何しに行ったんですか……本当に……」
呆れてしまって、翔龍子は思わず頭を抱えてしまう。
「ちょっと息抜きしてただけだって。オレ様だってもちろん、自分のやらなきゃいけないことは分かってるさ」
そんな翔龍子に向かって、虎王は不満げな声を上げる。
「それはそうでしょうけど……」
もっと自分の立場を考えてもいいでしょうに。言葉にこそしなかったが、虎王を見る視線にそんな力がこもる。
「そう言うお前は、もっと肩の力を抜いた方がいいぞ」
「え?」
何を言い返してきたか、はじめはそう思った翔龍子だったが、自分に向けられた視線が思いの外真剣なものだったので、何も言えなくなってしまう。
「実を言うとさっきあいつに会ったとき、頼まれたんだよ。お前に少し休むように言ってくれってな」
「あいつ……武宝ですか?」
確かに武宝なら虎王に泣きついて頼みそうだ。
「ドンゴロじゃない、あいつだよ」
だが虎王はそれを一言で否定する。では誰が虎王に頼んだというのか。それを考えたとき、最初に思い浮かんだのは一人の少女の姿だった。
「まさか、彼女が……?」
半信半疑で言ってみたが、どうやらそれが正解だったらしい。虎王はそれにうなずいてみせた。
「久しぶりに会って何を言うのかと思ったら、お前に休むように言ってくれ、とはね。さすがに驚いたよ」
盃を手にしたまま苦笑し、そしてまたくいっとあおってみせる。そんな虎王に対して、翔龍子は下を向いたままじっと何かを考えていた。
「まさか、あの人に言われるとは思わなかったな」
出てきた呟きは、はたしてどんな思いからのものか。
神部界と異世界との交流が本格的に始まって、あの少女はすぐに自分の意志で神部界に留まることを宣言した。そして互いの世界のために、この神部界のことを学びたいとも。
運命の番人となった虎王に代わり魔界の者の動きを監視するため、異世界との窓口役を買って出ていた翔龍子が、その少女の世話役(と言うにはやや語弊があるが)を務めることになったのは、自明の理だった。
少女は持ち前の勤勉さで、神部界の現状についてはすぐに理解した。そして文字や政治の体系などを覚え、今では文官の真似事をするまでになっている。
しかし翔龍子には少女がどこか脆く思えていた。じっとしていると不安が襲いかかってくるようで、それを振り払うために躍起になっているように見えたからだ。面と向かってそれを伝えたことはないが、何かにつけて少女のことを気にかけていたのは確かだ。
それなのに、向こうの方から休むように言われてしまうとは。これにはさすがに翔龍子も複雑な思いを抱かざるを得ない。
「まあ、お前は少し生真面目過ぎなんだよ。ちょっとは気楽に生きてみろって」
「虎王ほどお気楽にはなれませんがね」
互いに皮肉を言い合って、すぐ次には笑い合う。兄弟とも、友人というのも躊躇われる二人だったが、それでも確かに通じ合うところがあった。
「なあ、翔龍子」
「なんです?」
いいかげん酒も進んで、互いにいい気分になってきた頃、不意に虎王が翔龍子の方に向き直った。軽く答えた翔龍子ではあったが、虎王の目が据わっているのを見て思わず背筋に冷たいものが流れ落ちる。
だが真っ赤な顔で虎王が言い出したのは、翔龍子の予想を超えていた。
「正直なところ、あいつのことはどう思ってるんだ?」
「っ!? ……ゴホッ、ゴホッ!」
いきなりとんでもないことを言われて思いっきりむせ返ってしまう。ましてや口にしていたのが強めの酒だったため、喉がひりついてしまって涙が滲んでくる。さすがにその様子を見て、虎王も慌ててしまう。
「お、おい、大丈夫か?」
「虎王がいきなり変なことを言うからでしょう!?」
別の物を飲もうにも、並んでいるのが全部酒なのでそういうわけにもいかず、ひたすら耐えるしかなかった翔龍子の目が睨み付けるようなものだったとしても、それは仕方のないことだと言えるだろう。
憮然とした様子でまた盃を口に運び始めた翔龍子だったが、その様子を見ている虎王はと言うと、さっきまでのように真剣な面もちで考え込んでいる。
「なあ翔龍子、お前だってあいつの気持ち、気がついてないわけじゃないんだろ?」
「……私は、あなたの代わりですよ」
ひどく苦々しげな顔でそう言い捨てると、盃ではまどろっこしいとばかりに、虎王の持ってきた一升瓶を掴むと直接口を付ける。
「お、おい!」
虎王が止めるのも聞かず、まるで水でも飲むように一気に口の中に流し込む。
「私だって、私だってねえ! あなたにだけはそういうことを言われたく、ない、んで……」
ドン、と勢いよく一升瓶を置き、余勢を駆ってまくし立てた翔龍子だったが、言い終わらないうちに突っ伏したかと思うと、そのまま眠り込んでしまう。
「あーあ……ったく、だから言ったのによ」
それを見て思わず虎王は右手で顔を押さえる。口調こそ呆れ返ったようなものだったが、その顔には微かに笑みが浮かんでいる。
「だいたい、あいつがどう思ってるかもそうだけどよ……お前自身はあいつのこと、どう思ってるんだ?」
完全に潰れてしまい、まったく目を覚ます気配のない翔龍子に向かって呟いたその言葉は、問いかけると言うよりも、どこか諭しているような響きが混じっていた。
「うう……完全に二日酔いですね……」
翌朝、翔龍子は自分の部屋で目を覚ました。虎王と呑んでいた後の記憶が全くないことからして、酔いつぶれた自分を虎王がここまで運んできたのだろう。
だがそうなるまで飲んだのだ。当然のことではあるが、翔龍子の目覚めは最悪である。ひどい二日酔いで頭が割れるようにがんがんと痛む。どうにも動けないで苦しんでいたところに、いつもならとうに起きている時間になってもまだ姿を見せない彼を心配して、部屋にやってきた武宝の大声がとどめを刺した。
「……まあ身体が動かないということは、それだけ疲れが溜まっていたということなんでしょうね」
自嘲気味な笑みを浮かべながら、翔龍子は呟く。根を詰めすぎだという周囲の言葉が、こうしてはっきりとした形で証明されたわけだ。
と、遠慮がちに扉をノックする音が聞こえてきた。武宝かとも思うが、さすがに今朝のようなことがあった後では訪れ辛いだろう。では誰だろうか?
「どなたですか?」
声をかけてみるが、答えが返ってくる様子はない。訝しんでいると、控えめな声が聞こえてくる。その声の主が誰か、すぐに分かった。その途端に記憶の最後、虎王との会話を思い出してしまい、どうしても意識してしまう。
声の主は、その少女だった。
「あの……寝込んでいらっしゃるって聞いたんですけど、大丈夫ですか?」
本当に控えめな声だ。中で何かしていれば、おそらくその音にかき消されて耳に届きはしないだろう。それでは声をかける意味もないだろうに。
少女らしいと言えば、少女らしいのだが。
記憶の最後で、虎王はお前の気持ちはどうなんだと問いかけていたような気がする。少女の声を聞きながら、己の胸に問いかけてみる。
(……はっきり確かめてみるのも、良いのかもしれませんけどね……)
もっともそのつもりはいまはない。とりあえず、いまは。
だが、いまの関係を壊したくないからこそそう思うことに、結局は彼女の存在をどこかで求めていることに気づくには、まだしばらくの時間が必要だった。
8000HITの清水楠さんのリクエストです……受けたのっていつだったでしょう、本当に(爆)。
虎&翔というリクでしたが、とりあえず二人でしみじみと呑ませましょうかととっかかりは早かったものの、オチがきまらんきまらん(笑)。
んでもって、結局落ちてません(苦笑)。
舞台背景としては外典の二年後ぐらいですが、さて、出てきた少女って誰でしょう? 正解しても景品は出ませんので、あしからず(^^;