「日記」



 かつて、戦争があった。
 世界中が戦いの業火に灼かれ、多くの血が流された。
 人は人を憎み、妬み、そして殺し合い、ついにパンドラの箱を開けてしまう。
 すでに核が失われて久しい世界ではあったが、それでも同族殺しの兵器を生み出し続けてしまうのは、人間という生き物の性なのであろうか。
 それは緩やかな、けれども決して逃れることのできない死をもたらす爆弾。
 その中に詰まっていたのはウィルスだったのか、毒ガスだったのか、それとも他の何かだったのか。それはいまとなっては分からない。なぜならそれを作りだしたものは、その全員がすでにこの世を去っているからだ。
 確かなのは、その「何か」は世界中にばら蒔かれてしまい、世界は緩やかな滅びへの道を歩み始めてしまったことだった。














『今日の空は、恐ろしくなるほどに高い。
 実際に空の高さが変わるはずがないと頭では分かっているんだが、そう表現するしかない。
 あいつの前で空が高いなんて言ったら、そんなはずないと笑っただろうか。
 それとも、そうなんだと言って笑っただろうか』














 見渡す限り広がっている湖を望む小高い岬。そこへと続く草原を歩きながら、俺はふと空を見上げていた。
 右手にはブラシやらスポンジやらが入ったバケツ。肘から先のない左腕を振って必死にバランスを取りながら、俺は坂道をゆっくりと歩き続ける。
 いまの時代、俺のような負傷者は珍しくはない。だが珍しくないからと言って、生きていくのに易しいと言うことはもちろんない。あの戦争のおかげで文明レベルは劇的にスケールダウンしたために、日常生活を送るのもずいぶんと不便になってしまった。
 もっとも、そのおかげで大気が澄み、こんな鮮やかな青空が戻ってきたのだから悪いことばかりではないのかもしれない。
 うっすらと滲んだ汗で、額に前髪がぺたりと張り付いている。右手の荷物を一度地面に置くと、髪を掻き上げてから首にかけていたタオルで汗を拭う。
 振り返った俺の視線の先には、草原を真っ直ぐに突っ切る一本の道がある。舗装などされてはいない、人の足で踏み固められたでこぼこ道だ。そしてこの道をもっとも多く歩き、踏み固めてきたのは間違いなく自分だろう。
 再びタオルを首にかけ、バケツを手に持つ。もうすぐ岬の天辺だ、そこにあいつが待っている。こんな暑い日はさぞかし水浴びがしたくてたまらないことだろう。早くいってやらないと。
 一歩一歩、しっかりと確かめながら踏みしめる。
 左右に広がる、風に揺れる草原はまるで緑色の波のようだ。その波をかき分けた先、そこにそれはある。
 大きな、比較的丸目の物を選んでここに置いた。その石の前に立つと俺はバケツを置き、砂埃などで汚れているそれをブラシとスポンジで磨き始める。
 この下に、あいつは静かに眠っている。














『今日は、朝からずっと雨が降っていた。
 こんな日はあの日のことを思い出して仕方がない。
 あいつと初めて出会ったのもこんな、しとしとと朝から雨が降る日だった。
 雨煙の中、あいつはそこに浮かび上がるように立っていた。
 ひどく、現実感のない光景だった。
 けれどそれは、紛れもない現実だった。
 今日は、あいつと一緒に雨を感じよう。
 初めて出会ったあの日のように』














「おい、そんなところに突っ立って何している」
 思えば、どうして俺はあいつに声をかけたんだろう。
 終戦からこっち、その日の食い扶持を確保するのも精一杯だった俺は、お約束のように荒れまくっていた。
 力には自信があった。体格もそんじょそこらの奴とは比べものにならなかったし、実際喧嘩でも負けたことなんざ無かった。
 だが傭兵として戦場に立った俺は、爆発に巻き込まれて左肘から先を失った。
 片腕の傭兵に、戦場で職があるはずもない。仲間だったはずの傭兵たちの冷たい視線から逃げ出すようにして故郷に戻った俺だったが、そこで待っていたのは非情な現実だった。
 親父も、お袋も、誰もいなかった。
 故郷の町は、戦場となって跡形もなく消し飛んでいた。
 後から聞いた話だと、俺が左腕を失ったあの戦線。あれが大きく移動して俺の故郷を巻き込んだという。そのとき戦地を離れていた俺はそんなことを知る由もなく、すべてが終わった後にのこのこと戻ってきたというわけだ。
 もう、何もやる気が起こらなかった。
 自暴自棄になって、飲んだくれて、それでも死ぬだけの度胸もなくて。
 自分でもクズに成り下がったと思っていた、そんなときにあいつと出会った。
「聞いてるのか、何してるんだって言ってるんだ」
「見て分かりませんか? 雨を感じてるんです」
 俺の声は酷く荒々しかったが、あいつは怯えた様子を微塵も見せず、にこりと笑ってみせさえした。
 その表情があまりにも自然で、そのときの俺には眩しすぎて、そうかとただそれだけを言って視線を反らすことしかできなかった。
「だが、いい加減にしないと風邪を引くぞ。部屋の中からでも雨は見られるだろう」
「いいえ、見られません。だから、こうして感じてるんです」
 そこまで話してようやく気がついた。あいつの瞳はずっと閉じられたままだった。たとえ開いても光を映すことはないのだろう。
 終戦間際に世界中で爆発したあの正体不明の爆弾。中身がなんだったのかは分からないくせに、それがどういう結果をもたらしたのかはよく知られている。
 緩やかな滅び。
 それがあの爆弾が残した置き土産だ。
 人間の神経を冒し、その機能を徐々に奪っていく。それは非常にゆっくりとした速度ではあるが、一度失われた機能は二度と戻ることはない。その最後に待つのは、死。だから緩やかな滅びだ。
 あいつは爆心地からは多少離れた町にいたという。家族や近所に住んでいた人々は皆、すぐに死んでしまったという。あいつだけがまだ生き残っているが、それもいつまで保つか分からない。
「だからこうして、いろんな物を感じていたいんです。目は見えないけれど、頬に触れる風は、花の匂いは、この身体を叩く雨は分かる。むしろ目が見えてたときには見えなかった物が、いまなら見えるんです」
 そんなものかと思った。
 特にどうと言うわけでもなく、そんな考え方もあるのだろうなと、ただそれだけの感慨しか抱かなかったし、抱けなかった。
 だがそれからどういうわけか俺とあいつはウマがあって、一緒に暮らし始めたのはすぐ次の日のことだった。
 家族でもない、友人でもない、ましてや男女の仲でもない。けれど隣にいる。
 そんな奇妙な共同生活は、半年ほど続いた。














『今日は花を持っていくことにした。
 前にあいつが好きだと言っていた花だ。
 それを一抱えほど集めて花束にする。一本一本だと淡い匂いだけれど、 この数になるとさすがにすごい。
 この匂いが好きだと、あいつは言っていた。
 俺みたいだからと言われたのには、さすがに参ったけれど』














 草原の海を抜けて、岬の天辺へ。抱えるように持った花束をほどくと、墓の前に散りばめていく。墓前にただ備えるよりも、こうして花の匂いに包まれた方があいつも喜ぶと思うから。
 初めて花が好きだと言われたとき、俺は唖然としてぽかんと大口を開けたままあいつの顔を見つめてたものだった。
 空気でそれが伝わったんだろう、頬を膨らませたあいつは俺の胸をぽかぽかと叩きながら拗ねてみせたっけか。こんな歳になってもまだ女の扱いなんてうまくなれず、そうなる度に必死になって機嫌を取ったもんだ。
 まあ、あいつは女なんてとても呼べない、まだまだ青いガキだったけれどな。
「この花の匂いが好き。さりげない、けれど優しく包んでくれているような気がするから。まるであなたみたいで」
 両手いっぱいの花を抱えたあいつが、いつかそう言っていた。そのときは照れくささが先に立って、馬鹿言うなと言うだけだったけれど。
 本当は嬉しかったんだ。
「綺麗だとか、そういうのは、はっきり言って分からないけれど、だから余計にこの花の香りが好きなの」
 それから、俺も少し花が好きになった。
 こんな無骨な俺だけれど、花を愛でてもいいんじゃないかって素直に思えた。
 いつかここに、この花の種を蒔こう。
 辺り一面花で埋め尽くして、あいつの墓を飾ってやろう。














『身体が重い。
 ベッドから起きて、水差しの水を飲む。
 ただそれだけのことがこんなに辛いとは。
 疲れているのだろうか、目もやたらとかすむ。
 けれど今日は寝ているわけにはいかない。
 あいつが死んだのは、一年前の今日。
 会いに行ってやらなきゃならない。
 あいつのことだ、きっと寂しがってるだろうからな』














 思うように動かない重い身体を引きずって、ようやく岬の天辺までやってきた。
 地面に座り込むと、あいつの墓にもたれ掛かるようにして空を見上げる。
 どこまでも澄んだ青空。
 白い雲が流れていき、遙か高いところをなんだろう、種類までは分からないが鳥が飛んでいる。
 風が俺の頬を撫でて吹きすぎていく。
 眼下に広がる緑色の海が波打っている。
 こうしていると、この世界が緩やかに滅びへと向かっているだなんてとても信じられない。
 戦争の前よりもずっと、生きる力に満ち溢れている。
 そう思える。
 なあ、お前がまだ光を失ってない頃にこの光景を見ることができていたら、どんなことを思ったんだろうな。
 そんなこと絶対に分かるはずもないのに、考えずにはいられなかった。
 ゆっくりと息を吐きながら瞼を閉じる。全身の神経を研ぎ澄まして、視覚以外の全てに注意を向ける。肌に触れる感触や温もり。鼻腔をくすぐる匂い。聞こえてくる微かな音。それらが一つとなって、目で見るよりももっとたくさんのことを伝えてくれる。
 ああ、そうか。
 これが、あいつの言っていたことなんだな。
 あいつと同じ感覚を覚えている。そのことがなんだか、ひどく嬉しかった。














『……もう、時間の問題だろう。
 あれから視力はどんどん落ちてきている。身体も日に日に重くなっていく。
 間違いない、俺もどうやら例の爆弾にやられていたらしい。
 確かに爆風に乗った残りカスを浴びるぐらいのところには、あのとき俺もいた。
 もうすぐ。
 もうすぐそのときが、やってくる』














 這いずるようにしてやってきたのは、あいつの墓だった。
 目がかすむ。節々が痛む。息をすることさえきつい。
 それなのに俺は、全力を振り絞ってここにやってきていた。
 別に墓守を勤めていたつもりはない。結果として毎日ここにやってきてはいたが、大した意味など無かったはずだ。
 ただ自分がそうしたかったから、そうしていたまでだ。
 いまもそうだ。
 最期はここで。他に何処も考えられない。











 なんだ、そうか。
 家族じゃない。友人でもない。
 そりゃそうだ。


 男女の仲でもない。
 残念だ。大いに残念だといまは思う。


 なぜなら俺は、あいつを愛していたんだから。
 だから毎日この墓にやってきたし、最期を迎えるのもここ以外にはあり得ないんだ。
 そんな簡単なことに今のいままで気づかなかったってのは、実に笑える。
 腹の底から、笑いがこみ上げてくる。
 肺が痛み、咳き込みすぎて喉から血が流れても俺は笑い続けた。おかしくてたまらなかった。
 胸ポケットから日記代わりの手帳を取り出して、かすむ目と震える手で必死に言葉を書き留めていく。
 ありがとう。生まれてきて良かったと、心の底から思える。
 この世界が大好きだと、胸を張って言える。
 あいつの、おかげだ。













『この日記を読んでくれた方へ。
 どうかお願いです。私の亡骸を、この彼女の墓にともに埋葬してください。
 私はすでに腐り、骨になっているかもしれません。
 骨すら残らず、灰になっているかもしれません。
 それでも構いません。  たとえ一握の砂であったとしても。
 灰さえも残らず、土に還っていたとしても。
 ここに咲いた花を、私の代わりに墓に入れてください。
 彼女が大好きだった花の種を残しておきます。
 きっと、美しい花が咲いてくれることでしょう。
 彼女とともにいたい。すぐそばで彼女を感じていたい。
 そしてこの緩やかな滅びを迎えるこの世界の、その最後の瞬間までを見届けたい。
 それが私の望みです。
 どうか、どうかお願いします』















 男の亡骸が見つかったのは、その死後から三日ほどが過ぎてからだった。
 発見者は男の傭兵時代の戦友。男が毎日この岬に通い詰めていることを人づてに聞き、訪ねてきたのだ。
 友人が男を発見したとき、男は墓標代わりの石をまるで恋人の肩を抱くかのように抱きしめていたという。その顔はいままで自分が見たことがないほどに穏やかで、安らかで、幸せそうで、自分が知る男とは別人のようだったと彼は語った。
 いま彼が通った岬は、その一面が白い花で覆い尽くされているという。
 その花言葉が「希望」だったことを、果たして男は知っていたのだろうか。
 いまとなっては、確かめる術はない。







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